無題

私は面倒くさい人間なので、常に面倒で鬱陶しいことを考えながら生きている。

よく「苦しい時は親しい人に相談しましょう」だとか書かれたり言われたりするけども、その行為で何を得られるのか、その行為で救われるのかと考える。
親しい人間がいないわけではない、相談できないわけではない。でも、基本的に相談なんてしない。意味がないと思う。相談とは解決可能な事象に対して議論を交わすことであって、ただただ感情を吐露するのは相手にとって心地いいものではないと思う。それでも、今苦しんでいる自分のために周りを巻き込んで感情をぶつけた方がいい、という意味なのは理解している。

けれど、私は世界一大切で愛おしい私が他人に私の相談を持ちかけることを許さない。許せない。負けたような惨めな気持ちになって、解決なんてせず、ただ「苦しい人間」を増やすだけだ。しかも半分引き受けてくれたとしても、私は自分の感情を半分押し付けることができない。伝染させていくだけで、私の罹っている病に巻き込むことしかできない。理論上誰かに相談することが正しいとしても、私は相談することでより自分を責めるだけなのだから、相談なんてしない。

私は誰かに助けを求めることが下手だと思う。それは、私が心から「助けてもらった」と思えた経験がないから、あるいは多くの人が当たり前にできる助けてと乞うことに、何ら意味を見出せないからだ。

ああ、そういえば約一年ほど前に、生まれて初めて他人に「助けて」と言ったことがある。
けれど結局、その人に私を救うことはできなかった。初めて伸ばした手は、爪を剥がされ皮を剥がされ骨を折られ、最後には手首ごと切り落としてほしいとすら願ったけど、その人は私の痛みをやわらげるために手首を切り落とすだなんてそんな残酷なことはしたくもない、できないといったように、初めて誰かに、他人に伸ばした私の手を二度と伸ばせないほど痛めつけた。

ところで、たとえばの話だけれど、道に迷っている子供がいたとする。その子は泣いていて、親を見失って悲しんでいる。その子に話しかけて、親と合流するための手助けをすることは、そんなに難しくないことに思える。私なら、助ける。私は私が助けられる限界を知っているから、その限界のなかで最善を尽くす。
けれどもし、その子が親を無くして、あるいは亡くしていた場合、私はその子が育っていくまでの面倒、わかりやすく言うなら親権者になるかと問われれば、私にはそんな器量も度量もないので、しかるべき場所へ連れていって、何日か面倒をみることぐらいしかできないと思う。だから、今まで経験はないけど、そういう子と出会ったならば、そうする。私は優しい人間だから、これは例え話でなく絶対にそうする。私は、そういう人間だ。

そしてこの例え話は嫌味だ。嫌味というか、怨嗟だ。
常々、幼いころから思っていることがある。
砂漠を歩いている人間に、一滴の水を与えたところで、それは救済ではない。
そんなのはなんの解決にもなっていないし、一滴ほど、たったそれだけの水を与えるのは、その人間の浅ましさを露呈させるだけだと思う。私はそういう人間が嫌いだ。私に対して、そういう浅ましさで自分を慰めようとする大人に、私は百人近く出会っている。そしてその全員が求めたであろう「可哀想でどんなに小さくても与えられた恩に感謝する可愛い子供」であったことがないので、きっとほとんどの大人が私以外の、素直で、もっとましな子を助けて、自分の心を満たしたと思う。

助けを求められる人間は、それだけで才能があると思う。
自分にできないことを、苦しいという感情を相手に分けることができるのは、私より優れていて、素晴らしいことだと思う。生きづらい世を精一杯生きやすいと誤認して生きていて、偉いなあと思う。

けれど私にはそんな才能はなかった。一年と少し前、あの冬の初めの冷えた日に痛めつけられた手を思い返すたびに、私は二度と他人に助けなんて求めないと何度だって思う。

だって誰も私を助けられない。助けられるかどうかの判断もできないなら、最初から助けようとすることは烏滸がましい。虫唾が走る。

よく考えてほしい。どれほどの白さで、他人の黒を薄めようとしているのか。本当に明るくしてあげられる?助けてあげられる?あなたにそれが出来る?したいと出来るは違うよ、ね。

ちなみに、同量の白と同量の黒を混ぜた場合、ほとんどの場合は黒々しいままだ。

私の黒は、滲んだ血の赤が混じったけれど、そんなものはとっくに私の黒に飲み込まれた。

私は二度と声に出して「助けて」なんて言わない。
あんな思いは二度としたくない。助けてほしいと伸ばした手をどれほど凄惨にいたぶれるか、そんな人間の醜さはもうこの身で味わいたくない。

気持ちが悪い、苛々する。
苛々すると思ったままに書いたけど、じゃあ私は怒っているんだろうか。怒りは続かないというけれど、じゃあ私が感じている感情は、怒りではないのだろう。

絶望し続けているのだろう。